池の平 平の池と八峰の鋭峰
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裏劔
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前剣辺りでご来光を拝もうと言うのか、4時前から続々と劔岳に向け出発していく。
私も夜明け前に山荘を出る。ただ皆さんとは逆方向、劔沢へと一人下っていく。突然、東の空が赤く燃えだした。
鹿島槍がシルエットとなり美しく、息を呑むようだ。
燃える朝空 中央右が鹿島槍
そして南を見れば静かに浮かぶ別山と劔沢小屋の光りが、朝の気配を感じさせている。
朝の気配を感じさせる、劔沢小屋の光り
山荘から20分ほどで劔沢に出合う、飛び石沿いに徒渉し右岸の道へと合流する。
そして10分ほど下った所で道は雪渓に飲み込まれている。
軽アイゼンを履き、雪渓に降り立つ。
溶けて小さくなっている劔沢と源次郎尾根、八峰
何十年振りの劔沢雪渓である。無性に嬉しくなってくる、単純なものだ。
朝で雪が堅くなっているかと思ったが、そんな事は無く適度に柔らかくアイゼンなしでも大丈夫だ。
感触を楽しみつつ劔沢を下る
久しぶりの雪の感触を楽しみつつ、軽快に劔沢を下り始める。
少し下って源次郎尾根の手前の谷が平蔵谷だ。
この雪渓が別山尾根の平蔵のコルへ突き上げているのだ。
上部はかなりの傾斜だった事を覚えている。記憶にある大岩が劔沢との出合いにあった。
何時だったか雷雨に遭いこの大岩の傍に避難、下から上に稲妻が轟くような雷でなかなか収まらず、金具と言う金具を当時1年生だった私が持たされて劔沢キャンプ場へ一人皆から離れて歩いた記憶がよみがえってきた。
笑い話だが、酷い事をされたものだ。
平蔵雪渓
さらに源次郎尾根をかわして次の谷が長次郎谷、陸軍陸地測量部が初登頂したときのルートとなった谷である。
私もこの谷の雪渓を何度か歩いた記憶がある。長次郎を登って平蔵を降りると言うのが定番だった。
源次郎尾根と八峰に挟まれた、何とも良い景観の明るい谷である。
長次郎雪渓 右手には八峰の鋭峰が並び立つ
長次郎谷を過ぎた所で、左岸の道へ上がるようになっていた。
この下の滝の所で雪渓が落ち、危険なのだそうだ。
滝を迂回して再び雪渓に降り、しばらく行くと真砂沢小屋が見えてきた。
真砂小屋の主人に二股までのルートについてお聞きする。
豪快な風貌、まさに山小屋の主人、気持ちの良い山男である。真っ直ぐ二股へ行くルートの雪渓が落ち、危険なので通行止めにしてある事。
右岸を高巻くルートを使って、沢に降りた所に仮設の橋が架かっている事。
などを実に丁寧に要領よく説明してくれた。
つい居心地が良くて、無駄話をし長居をしてしまった。お忙しいのにごめんなさい。教えてもらったルートはすぐに分かったが、臨時に設定したものではなく、内蔵助谷に通じているルートを活用して以前から予備的に設けられている高巻きルートなのであった。
高巻きと言うと沢歩きで登れない滝に出合って側壁を高巻く程度しか想像出来ない私の予想を越えたずっと大きいものだった。
高巻きルートから再び沢に出合うと、言われた通り仮設橋が架かっていた。
しっかりした仮設橋が架かっていた
ここから沢の左岸を下っていく。一部ゴロゴロ石で歩きにくい。
この辺りで先行していた単独男性に追いつく。私より少し年齢のいった方、私と同様数十年振りの劔岳なのだと言う。
同じような人が居るものだと興味をそそられるが、ゆっくり行くと言うので先に行かせてもらう。二股は劔沢に三の窓と小窓の雪渓からの流れが合流している地点。立派な橋が架かっている。
二股 右奥の大岩が近藤岩
これまでの景観と一変して、がらりと雰囲気が変わる。
その中心は、三の窓雪渓と劔岳山頂付近の鋭峰群の表情である。
二股から見上げる三の窓雪渓と鋭峰たち
気持ちよい開けた谷にザックを降ろして大休止。
おやつを口にしながら、鋭いのに晴れやかな景観を楽しむ。ここは裏剣の玄関口、仙人峠への辛い登りが控えているが、その先には素晴らしい裏剣の静かな佇まいが待っている筈だ。
仙人峠へ登り始める。結構キツい登りである。
小1時間も頑張ると、展望が開き出し疲れも飛んでいくようだ。
思わず見入ってしまうほどの素晴らしさだ。裏剣にやって来たと言う気持ちになってくる。
三の窓雪渓と針のような岩峰群
まるでヨーロッパアルプスの景観を切り取って来たような印象ですらある。
そしてその景観が登るに連れて、少しずつ変化していくのも面白い。
針峰
目は劔岳の鋭峰へ向きがちだが、振り返ると後立山の名峰・鹿島槍が優美な姿を見せている。
双子峰が印象的、素敵な姿を見ていると鹿島槍も再訪してみたいなと言う気持ちになってくる。
危ない、危ない。そんな事をしていたらすべてを訪ねなくてはならなくなる。
再訪は穂高と劔岳だけ、そう決めて出て来たのだ。
鹿島槍 優美な双子峰だ
稜線空際が近づいた気配を感じて間もなく、仙人峠。
仙人池ヒュッテの赤い屋根が右手に見えている。
いよいよ裏剣の領域に入って来た。
仙人峠から道を左にとり、池の平へと足を向ける。
チンネや八峰の岩峰が刻々と姿を変えつつ目の前に現われる。
荒々しさと穏やかさが渾然一体となった、不思議なそして素晴らしい光景が広がり始めている。
チンネ(右)と八峰の頭 劔岳山頂は八峰の向こう側
やがて池の平山の山裾に立つ池の平小屋が見えてきた。
小さな草原に建つ、まるでハイジの小屋を連想させる可愛い小屋だ。
池の平山と小屋
小屋の脇の草原ものんびりするには気持ちの良い所だが、少し下った谷間の幾つか小さな池のある草原はさらに寛げる。
山懐に抱かれるとは、こういう情景を言うのだろう。
座ったり、寝転んだりしながら、眺めていると、余りにも日本離れした景観に、ここは何処?と思ってしまう。
池の平 平の池から
恐竜の背中の様な八峰の岩峰、そしてチンネの岩、それを引き立てる草原と池。
無駄なものが無い、夫々が夫々の役目を知っているかの景観、佇まいである。
小さな池が幾つも点在する
池の水は清く澄み切っていて、水草の茎が透けてちょっと不思議な感じで目に映る。
光を受けた鮮やかな黄緑が木々の濃い緑と対照的だ。
気持ちもゆったり寛いでいると、時間の経過もわからなくなる。
こんな素敵な所へカミさんを連れてきてやりたい、ふと思った。
でもそれは出来ない相談、何故なら私自身これが最後の劔岳なのだから・・・。
草原の片隅には、クロマメノキが沢山あり実が付いている。
おやつ代わりに頂く、美味しくて次から次へ。
ついつい動物たちの分まで食べてしまったかな?気づくとすでに1時間以上が経っている。
青かった空も雲が湧き始め白っぽくなってきた。
後ろ髪を引かれる思いで立ち上がり、池の平を後にし仙人池を目指す。
仙人峠から仙人ヒュッテ
見る間に雲に覆われ始め薄暗くなって来た。
池の平に居る間、晴れていてくれラッキーだった。感謝・感謝である。仙人池ヒュッテでは、気さくな持てなしで知られる「仙人池のおばあちゃん」とお手伝いの女性が出て来てくれ、立ち話。
その物腰の柔らかさと家族的な雰囲気が人気なのだろう。
それとなくここに泊まれと言う感じだったが、「どうぞお元気で」とお別れした。
仙人池 有名な撮影ポイントだが劔岳は雲の中
仙人池ヒュッテを後にすると、すぐに雨が降り出した。
雨着を着てザックカバーをかけ、淡々と仙人谷を下る。
雨と汗で濡れいい加減嫌になって来た頃、仙人温泉の湯煙が見え始めひなびた昔ながらの山小屋に到着した。温泉は小屋の脇にあり、いつでも入れる。
谷を挟んで、後立山の唐松岳が良い姿を見せ、それを鑑賞しながらの入浴だ。
秘境 仙人温泉
熱ければお湯のホースを外に放り出し、ぬるければ水のホースを放り出す、簡単だが豪快な温度調節。
雨に濡れた体がジンワリと温まり、温まったら温度を下げて何時まででも入っていられる、そんな温泉である。
お風呂から見る唐松岳
唐松岳から北に延びる鑓ヶ岳、杓子岳そして白馬岳と続く稜線の姿も秀逸で、歩いた時の事をお風呂に入りながら思い出す。何とも贅沢な豊かな時間の流れである。
雲に見え隠れしながらの唐松岳〜白馬岳に続く稜線
9.15(水)仙人温泉に一泊して、翌日は黒部峡谷へ向かう予定だった。
所が9.16(木)は終日雨の予報、せっかくの黒部峡谷を雨の中歩くのは気が滅入る。
そこで温泉小屋にもう一泊し、9.17(金)に黒部を訪れる事にした。慌ただしく一泊で立ち去るのと、ゆっくり二泊とでは全く違う。
小屋の人と話をし、小屋での生活も把握でき、その人柄も理解し合える。小屋の親父は高橋さんと言って実に気さくな明るい人。
小屋の様々な仕事をテキパキこなすだけではなく、音楽を愛し、文章も書くスーパーマン。
蕎麦を打ってご馳走してくれたり、食後にギターを奏でたり、身を粉にして動いている。
酒を飲みながらギターを奏でる親父さん
人柄に惹かれて、温泉小屋で無償で働くボランティア・スタッフも多いと言う。
丁度、その一人である群馬の田中さんという几帳面で誠実な40代の男性が手伝いに来ていた。また私と同年輩の男性二人が居候をしているのだと言って連泊していた。
聞くと日本アルパイン・ガイド協会の専務理事をしている勝野さん、今井さんのお二人。
日本は勿論、ヨーロッパの主要な岩壁を征服し、あちらでのガイド資格も持っていると言う方達だ。
親父さんのたっての希望で「劔岳はチンネの頂上でギターを奏でる」と言う、突拍子な希望を叶えるべくガイドすると言う。
奇妙奇天烈な願いをする人、それを叶えてやろうとする人、その間の小屋の仕事を買って出る人、いや〜実に面白い。この日の宿泊客だった、私と山の温泉を訪ね歩いている名古屋の男性、単独テントを背負って裏劔にやって来た女性の三人は、山小屋の親父を中心とする人間模様に圧倒され、巻き込まれ、この奇妙な暮らしにはまり込んでしまった。
左から今井ガイド、女性のIKさん、私、勝野ガイド、親父さん
仙人温泉小屋での2日間は、実にほんわかした雰囲気で心から寛げた。
近くに人気の小屋もあるけれど、日程が合うのならぜひお勧めしたい小屋である。さあ明日は今回の山旅最後の訪問地、黒部峡谷である。
楽しく思い出深い一日が過ごせますように。