熊野詣で古くから最も利用された古道「紀伊路」は、京都から淀川を下り大阪から和歌山、田辺を経て紀伊山地に分け入り熊野三山へ至る。
このうち、田辺から標高300m〜700mほどの山中を走破して熊野本宮大社、那智大社、速玉大社に至る山岳路を熊野詣での聖域として紀伊路と区別し、中辺路と呼ぶようになったという。特に平安時代から鎌倉時代にかけて皇族、貴族が延べ100回以上も参詣した「熊野御幸」では、中辺路が公式参詣道(御幸道)とされたのだそうである。
私達も熊野古道歩き旅の最終章として、この中辺路を歩くことにした。
これまで歩いてきた高野山町石道、小辺路、大雲取越などの古道を歩いて感じたものが、中辺路を歩くことによってどう変わるのか、変わらないのか、熊野とは何なのか、そんな疑問に答えが見つかれば良いなと思いながら・・・。
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忠実すぎる尾根道
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道は稜線に忠実に沿って続いている、これは熊野古道全般に言えることで、あまりの忠実さに昔の人は山腹を巻くことを知らなかったのではと疑うことが度々あった。
ともあれアップダウンの連続する道を淡々と歩く。
朝日が低い角度で差し込み、太陽が創りだす光と影が印象的な光景を見せていた。
光芒が変化に富んだ造形を創りだす
視界が開けると紀伊山地が良く見える、遠く北東に座している山は先日小辺路で通過した果無峠であろうか?
紀伊山地 右奥の山が果無山脈と思われる
こんもりした森は高原熊野神社、古く小さいが立派な神社である。
無事歩い通せるよう、しっかりお参りする。
高原熊野神社
高原熊野神社から高原の集落となり庭の手入れをしている住人らと朝の挨拶を交わしながら歩く。
その内の一人から広がる眺望の説明や今はエッセイストとして活躍しているイーデス・ハンソンさんがこの集落に住んでいることなどを伺った。高原の人家を通り過ぎる景観の良い高台に少しおしゃれな農家カフェがあったが、もしかしたらハンソンさんの家であったかも・・・。
高原の集落を過ぎると近露まで人家はなくなるので注意! との注意看板が立てられていた。
地元住民の方たちの手を煩わす人が多いのかな?
30分ほど行くと、高原池。
森の囲まれた静寂の池、この時期木々の黄葉が美しく写真タイム。
朝が早かったのでお腹も減り、コンビニで買い求めたおにぎりを一つづつ。
黄葉が美しかった高原池
高原池からは、例の稜線に忠実にアップダウンする道が続き景観も樹林に阻まれて多くは望めない。
ただ、古道らしく大門王子、十条王子、小判地蔵、悪四郎屋敷跡、上宇和茶屋跡、三体月鑑賞池、大坂本王子など王侯貴族達が参拝したり休憩したのだろう場所跡が次々に現れ、それらを話題にしながら歩けば退屈することはなかった。
歩き始めて約4時間半お腹もすいてきた頃、車道が平行して走るようになり古道と接する所に出た。
そこには人が大勢居て道の駅「中辺路」があった。
やれ幸いと道の駅に立ち寄り、大休止。和歌山名物「サンマ寿司」を購入、油の抜けたサンマなんてと北海道人は思うけれど、あっさりしていて意外に美味しい。
やはり名物は試したり食べたりして見るものだ。お昼ごはんを食べていると、熊野古道に関する和歌山県のアンケート調査を依頼された。
歩いている人にお願いしていると言われたが、結構ボリュームある調査で真面目に答えると15分ほど要する内容だった。
真面目に答えたのだから、真面目に分析・活用してもらえれば嬉しい。道の駅から可愛いと評判の「牛馬王子」は、古道を歩いて15分ぐらい。
車でやって来た人たちも散歩がてら見物に行くので、王子は大盛況。
写真を撮るのに順番待ちの様相だ。
小さいながら整っていて可愛い、牛馬王子
思っていたより小さいけれど、なかなか可愛い像である。
かつてはこのような像がいくつも祀ってあって、疲れを癒やし元気をもらったのではないだろうか。
まあ、かわいい〜!
牛馬王子から古道を近露へ歩くと人は減り、再び静かな雰囲気に。
そう思って歩いていると、男の子とおばあちゃんの二人連れに追いついた。
近露のあばあちゃんの所へ田辺に住む孫が遊びに来て、散歩しているそうだ。小学1年生の男の子がカミさんに「おばちゃん・おばちゃん」と言ってまとわりついて離れない。
結局、近露の町中までおしゃべりしたり遊んだりしながら愉快な一時を過ごさせてもらった。この時、おばあちゃんからなるほどと思う話を伺った。
それは石畳が滑ると言う話から、昔の人は草鞋だから石畳は歩きやすかったのだそうだ。
今の靴では濡れたら滑って危なくて仕方ない、そんな時は荒縄を巻くと滑らないと伺い、なるほどと合点した。
丁度、紅葉も見頃の時期だった
近露王子のある近露は思っていたより大きな町。
商店、民宿などが立ち並んでいて、通り沿いの民家も花を活けたり、柿などをオブジェのように飾ったり町並みを美しく仕立てていた。中辺路を歩く人の多くが、この近露に宿を取るのが良く分かる気がする町である。
ここのこんもりした森のなかに近露王子が祀られている。
近露王子
私達は明日の行程が少しでも楽になるよう、継桜に宿をとっている。
あと1時間の頑張りである。幸い道は程なく簡易舗装の車も通れる道と合流し、激しいアップダウンもない優しい道。
道路脇の景観を楽しみながらのんびり進んでいく。
この時期、柿と柚子はどれも実を沢山付けている。
カミさんはその光景に自分の田舎を重ね、しみじみ思いだしている様子だ。
道路脇のたわわに実をつけた柿の木
そして大きな杉が何本も立っている所が、継桜王子であった。
巨大な杉がある所が何故桜なの? チョット変。この王子には立派なお社が建てられ祀られていた。
継桜王子
継桜王子には20人位の人たちがお参りしていて、車に分散して宿へ向かうようであった。
本宮大社から歩いてきた人たちなのか、私達と同じ滝尻から歩いてきたとすれば相当早く出発したのだろう。私達の宿は、この継桜王子のすぐ下にあった。
民宿「つぎざくら」は、民家を改装して夫婦二人で営んでいる宿。
大坂で長い間料理人として働いてきたご主人が、両親亡き後10年以上放置されていた実家を何とかせねばと、改装して3年前から料理民宿とした宿である。料理はご主人、接待は奥さんの、品よく整えられた清潔な宿だ。
食事は、さすがに料理人の出す会席料理。
食べるテンポに合わせ次々に9品ほどの料理、どれも極め付きに美味しく残すこと無く完食した。それとなく用意された爪切りやハサミ、バンドエイドなどの小物、旅人の身になって考えてくれている優しさたっぷりの気持ち良い宿であった。
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中辺路 2日目
継桜王子〜熊野本宮大社〜川湯温泉 11/18(月) 晴れ時々曇り
中辺路のお茶屋(今は休業中のよう)
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最終コーナー
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民宿「つぎざくら」
もっとも本物の秀衡桜は枯れてしまって二代目の桜が植えられ、その根本に本物の幹が置かれている。
秀衡桜 根本に置かれているのが本物の幹。
小広王子までは道路を行くが、そこからは山道となり小さなピークを乗り越えては谷に降り、また登るという登り降りを何度も繰り返す道になる。
標高差はせいぜい3・400mなのだが、何度も登り降りするので結構ハードである。わらじ峠を下りて谷川に出た所で、古道が崩れ大きく迂回する道が指示されていた。
迂回路も古道の南側の山を登り再び谷へと急降下を二度ほど繰り返す。
この間に昨日継桜王子で出合った20人ほどのパーティを追い抜かせてもらう。
私達と同年輩の人が多く、女性も約半数。私達よりだいぶ早くから歩いていたらしい。蛇形地蔵で本来の古道に戻り、山道を三越峠へ。
道の両側はこれまでと同様、杉の植林地が続くがこの付近は裕福な山持ちが多いのか、良く手入れがされていて林内は明るく見通しも良いので気持が良い。
三越峠はかつて関所があった所とか、広場になっていておにぎりを一つづつ食べながら休憩する。三越峠を下ると、音無川という清流沿いを歩くようになる。
水面の波紋に日差しが当たり、キラキラ輝いている。
とても無理だが、こんな澄んだ純真な気持を持ちたいものだと思わせる清流であった。
こんな澄んだ心を持ち続けたいものだ
音無川沿いの道は紅葉がなかなか美しく目の保養をしながら楽しく歩け、道中には船玉神社や猪鼻王子などが祀られていた。
船玉神社
猪鼻王子からゆるやかな道を登っていくと左手から車道が合流してきた。
その先には鳥居が見え、立派なお社も立っている。
発心門王子で、これより先は熊野本宮大社の聖域とされているのだそうだ。
発心門王子
近くにきれいな休憩所があったので、場所を借りてお昼ごはんにする。
二段重ねの豪勢なお弁当、一緒に休憩していた人たちが思わず覗き見するほど美しく美味しいお弁当。
腕をふるってくれた「つぎざくら」のご亭主に感謝・感謝の一時であった。この発心門王子から熊野本宮大社までは、最も熊野古道らしい雰囲気を感じつつ歩けるとして人気のコースになっている。
道幅も広くなり、点々と小さなお店もある。この付近から小辺路で通過した果無峠をしっかり見ることが出来、感動を新たにした。
果無山脈 果無峠付近がしっかり見えた伏神王子は、はるかに本宮大社を望み伏し拝んだことから名付けられたというが、それらしい川とこんもりした森が見えるだけだった。
伏神王子から暫く行くと三軒茶屋、ここに小辺路からの道が合流してくる。
伏神王子から約30分歩いた所に作られた「チョット寄り道展望台」からは、大斎原の大鳥居をしっかり確認することが出来た。
中央下に大斎原の大鳥居が見える
ここからの光景は、江戸時代に描かれた本宮大社の絵図に似ているように感じたがどうであろうか?
それとも全く反対側から見た図かも知れないな?
古い本宮大社の絵図(熊野本宮大社HPより)
道は次第に高度を下ろし、目指す本宮大社も間近の気配。
祓戸王子は大社への参詣前に水垢離をして身を清めたところらしい。いよいよ本宮境内へ入っていく。
さすがに緊張し、身震いする思いだ。
神門から先は高野山奥院と同様、撮影禁止だ。
歩いてきて汗をかき汚れた格好だが、威儀を整え・息を整え神門をくぐる。中に入り正面を見上げて、ひっくり返りそうになった。
何と社殿は修復工事用のシートで完全に覆われ、屋根の一部しか見えないのだ。
唖然としていると、参詣に来ている人たちはシートに開けられた4つの穴に向かって頭を下げている。
その穴は祀ってある熊野三山の神々に対応した社殿の前にあり、賽銭箱が置いてあるのだ。不気味なのっぺりした灰色の顔が、金をくれと4つの口を開けているように見える。
気が抜けて、へたり込みそうだ。
俺は何をしに10日もひたすら歩き続けてきたんだ。
こんなものを見るためだったのか!信仰心があるわけではない、でも熊野古道を200Km近く無事歩き通せた御礼だけでも心から申し上げたかったのにそれすら叶わないことに無常さを感じるのだ。
「おとうさん、残念だけどせっかく来たのですから、お参りしていきましょう」
カミさんの声に力なく頷き、暗い穴に賽銭を入れ頭を下げる。人生いろいろ、空回り。
こんなこともあるさ、滅入ることあれば嬉しいことも、残念なことあれば幸せを感じることも。気を取り直して、元気を出そう!
神門の横に拝殿と言う建物がある、拝殿というからには神々に通じているに違いない。
穴蔵よりこちらのほうが、素直に頭を下げられる。
そう思って、拝殿に参拝。
本宮大社 拝殿
そして、社務所で記念のものや子供や孫達の健康を願って、お守りなどを求めた。
本宮大社 神門
まず求めたのは、熊野牛王神符。
八咫烏の御神符に誓ったことを違えれば、たちどころに血反吐を吐いて死に至る。
と信じられ、暴れ者や侠客たちも恐れ一目置いたというものだ。いざという時の切り札にしようと思っているのだが、いわれを知らない現代人には効果はあるのかしら?
牛王神符
ご存知、八咫烏のお守り。
八咫烏のお守り
八咫烏
お守りには色や大きさも色々ある。
男の子用、女の子用、喧嘩しないようジジババも苦労するわ。
明治に大洪水で流される前に熊野本宮大社が置かれていた聖地が大斎原(おおゆのはら)。
そこに現在の規模の数倍の社殿などが建てられていたそうだ。
今は鳥居と石造りのお社が建てられているだけだが、最近流行りのパワースポットとかで人気を集めているらしい。
かつての本宮大社見取り絵図(熊野本宮大社HPより)
広い中洲に大鳥居が立っている。
巨大さに驚くが、ポツンと一人立っている姿は寂しそう。
大鳥居
大斎原は訪れる人も少なく、ひっそりしていた。
2つ並んでいる石造りのお社にも参拝したが、宗教心の薄い私など何も感じることは出来ない。ただ、熊野古道歩き旅もこれで終わったのだな〜と言う感慨はいっぱいであった。
大斎原の大鳥居前で
今日の宿は川湯温泉にある、ペンション「あしたの森」
どういう宿か知らないが、和食続きだったのでペンションなら毛色の違った食べ物に出会えるかもと思ったのだ。電話をすると息子さんが車で迎えに来てくれた。
川湯の川沿いにあり、年数は少し立っているがヨーロッパの山小屋風の洒落た造りのペンションだ。
自前の木にこだわって、柱・壁板・廊下は全て檜、梁は杉、桜や松・桐などをふんだんに使って建ててある。
川湯温泉 川岸を掘れば温泉だ
ご主人は大きな山を持つ森林経営者、話をしてみると山や森林について大変な知識をお持ちで、森林経営の素晴らしさも問題点もしっかり把握され、今も仲間の先頭に立って優れた森林経営を目指し努力されている方らしい。
ペンションは約30年前に建てられたそうで、その頃は今とは違い林業も元気な時代。
「あしたの森」というペンションの名前からも、ご主人の林業に対する意気込みが伝わってくる。
あちこちに手作りのお風呂が掘られている掛け流しの温泉はたいそう気持が良い。
料理は創業した30年前から夕食はステーキ、朝はベーコンエッグのみというこだわり方だ。川湯温泉を少し散策してみる。
目の前の川底から細かい泡が無数に湧き立っている。温泉が湧いているのだ。
スコップが置いてあり、勝手に掘れば露天風呂の出来上がり。
さすがに入浴している人は居ないが、足湯にして楽しめる。
入ってみると結構熱い、熱ければ川の水を導入すればOKなのだ。川の水も綺麗だし、夕暮れ時の表情もなかなかだった。
川湯温泉の夕暮れ
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