お遍路とは何だろう、神・仏にすがって歩くことなのか、世捨て人なのか、良く判らないまま四国へ、遍路へと旅立った。
歩き終わって、遍路とは歩く、ひたすら歩くことだと思うようになった。
お遍路は仕事もしない、日常生活も送らない、どうしようもない人間に限りなく近い状態にいるとも言える。
だから非日常の世界・時間を彷徨い歩くことなのだと思えてきた。札所に額ずいてお参りする。それが一番大切な事だと思っていた。
歩いているうちに、多くの人々と出会いその人達から頂くお接待の心・気持ちに触れる事で癒される、気持ち良くなる自分がいる。
自然の中で欲得と無関係に生きている木々や花々を見ていると気持ちが安らぐ。
風や光や波がゆらぐ気持ちを立て直してくれる。癒され、気持ちよく過ごす為には、歩く・ひたすら歩くことだと思えてきた。
だから、歩く。
42日間、1200kmに及んだ 私達の四国歩き遍路旅。
順風満帆の日ばかりではなかったが、励ましあい助け合いながら歩き通す事が出来た。
もしかしたらこれが夫婦で歩く遍路旅のメリットかも知れない。
月山神社の宮司さんが「夫婦で歩くのは良い、寂しくならないから」とおっしゃった。
確かに、暗く落ち込む事もなく、変に深刻になる事もなく、はしゃぎすぎる事もなく、お互いをフォローし合って歩くことが出来たと思う。
目眩や喘息発作に何度か見舞われ、マメの痛みに耐えながら、気力を振り絞り歩き通したカミさんを誉めてやりたい。
四国巡礼は、彼女の長年の夢、憧れであった。
憧れを現実のものとした喜び・達成感を大いに味わってほしい。
私自身もその夢を叶えることに加わり共に汗をかけて嬉しい。思えば現役時代、職命とは言え25年間にわたった単身赴任生活、辛い苦しい時もあったろうに辛い顔も見せず、泣き言も言わなかった。
子育て、仕事、嫁・姑、色々あった筈・・・。
お陰で私は誇りに感じてた仕事を全うする事が出来た。
そんな胸の内を、遍路旅をした事で少しでも和らげられたのなら嬉しい。
素晴らしい旅だった。
思い残す事がないというのだろうか、温泉旅行や観光旅行とは全く異質の充実しきった旅。
止めたいとか止めておけばよかったなど、一度も思わなかった。楽しかった。
思い起こすたびに、心の中で優しさ、温かさ、清々しさが膨らんでゆく、そんな旅であった。私達の人生、この先何があるか分からないけどただのんびり過ごして老いてゆく人生より、今回のように同じ目的に向かって努力する人生を送ってゆきたいと思う。
四国病には罹っていないと思う。
今また歩くかと問われれば、歩かないと答える。
他にやりたい事があるからだ。
でもチャレンジする前向きの人生を送っていて、再び四国を歩く選択肢を見つけた時は、歩いてみようか?
感謝とか、ありがとうという言葉より、もっともっとふさわしい日本語は無いのだろうか?
四国歩き遍路中に出会った、多くの人々、自然、風、光、波、すべてに感謝、ありがとうを言いたい。
心配してくれた顔、励ましてくれた顔、優しかった顔、笑った顔、しかめっ面の顔、思いやりの顔、忠告してくれた顔、諌めてくれた顔、喜んでくれた顔、その時その時のお顔とシーンがふと浮かんでくる。
出会った人は皆、人に喜んでもらう事に一所懸命な人、喜びを見いだしている人、なんて凄い人。
出会った顔に、出会った人達に心から感謝、ありがとう。そうゆう人達に会わせてくれた四国に感謝。
無欲で歩いていれば、歩き続けていれば、そうゆう人に出会える。
何かが見えてくる。それが四国。
そんな四国に感謝、ありがとう。自然の中にいると欲得とは無縁、無心になれる。
自然体でいれば無心になれる、野に咲く花のように。
そこには一生懸命咲いた喜びが残るだけ。努力した結果が残るだけ。
それを教えてくれた四国の自然に感謝。風や光や波に感謝。ありがとう。昨日の反省をしても戻れない、明日への期待をしても判らない。
今を一生懸命生きるだけ。
生きている事、生かされている事に感謝。
歩きながら、こんな事を感じさせてくれた、考えさせてくれた四国に感謝。
四国の人々に感謝、自然に感謝、みんなありがとう。今度は私が人様に喜んでもらえるように努力しよう。
そういう思いにさせてくれた四国に、人々に、自然に、感謝、ありがとう。
お遍路に出る前、宗教にはあまり関心がなかった。
お遍路から帰った今も、あまり関心はない。そう思っている。宗教や信仰なんて、大した事ないと思っている訳ではない。
国や人間の柱みたいなものだろうと思っている。
目に見えないものに対する、尊敬・畏敬・恐れなどが人の生き方に及ぼす力は大きいと思う。
何となくそう思っているが、だからと言って関心が強い訳ではない。
今回の遍路旅を通じて、心の中で明らかに変ったものがある、何故だか自分でも判らない。
それは、お大師様への尊敬の気持ちだ。
尊敬の気持ちが芽生えたと言った方が言いかも知れない。信じている訳ではない、崇拝している訳でもない。
歩いているうちに、陰に陽に彼の大きさを何度も感じ、感じざるを得ず、いつの間にか知らず知らずに頭を下げる自分がいる。お大師様にお願いしたり、頼る気持ちはない。
お参りの時、ご本尊には心静かにお参りする、お大師様とは話をするようになった。
「今日はこんな嬉しい事に出会いましたよ、こんな大変な思いをしましたよ。これから又二人で協力し結願出来るよう努力して行きます。どうぞ見守って下さいね。」
そう、お大師様と話をし、約束すると安心する。
返事は聞こえないが、出来そうな気になってくる。
自分一人で思い悩まず、一緒に頑張ろうと思えてくる。
熱くならず、冷静に自分を見つめられる、そんな気がする。見守って下さる、そう思うと勇気がわいてくる。
大きな愛を感じる。お大師様の業績など何も知らない。
あるおばあちゃんが、「お大師様はお偉い方です。1000年経っても四国に沢山の人を呼んで下さる」と言っていた。
そうなのだ、大きさを感じるのだ、図抜けた大きさを。だから、尊敬する、秘かに尊敬する。
そんな気持ちに変ってきた。
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