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川の古道
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川湯のペンション「あしたの森」でゆっくり目の朝食をいただき、ご主人と歓談。
静かな語り口にも林業に対する並々ならぬ情熱と愛情が感じられる。
まだまだ現役として活躍して頂きたい方であろう。
ただ林業従事者としてのみならず、熊野の自然を守る立場にも立ってその両立にお力を発揮していただきたいと強く思った。ペンションのご主人に見送られ、バスで日足にある川下りセンターへ。
今日の乗客は7名で外国人が4名だ。
船頭と熊野古道の語り部が同乗してガイドしてくれるそうだ。
荷物はマイクロバスに入れ、川船には空身で乗り込む。
小さな木製の小舟
底の浅い8人も乗れば満員の小さな木製の小舟である。
今年85歳という老練で無口な船頭さんが手際よく手はずを整えてくれた。
目線が低く、風景が新鮮だ
小舟に座っているので、目線が低くなり水面と近い。
遠目ではゆったり流れる川の流れも、水面からだと以外に早くて驚く。
見える景色も新鮮だ。
冷えると言われたのでダウンを着込んだ
女性の語り部ガイドが、流暢に英語を混ぜなからガイドしてくれなかなか楽しい。
少し残念なのは一昨年の水害の影響が至る所に残り、復旧工事の影響で川の水は濁ったままで、流木なども積み上げられたままなのだ。
復旧工事の影響で清流も濁っている
途中恐竜の背骨が横たわっているようにみえる、骨島と言う所に休憩を兼ねて一時上陸。
骨岩に触ると幸運のパワーが頂けるそうだ。
年末シャンボ 買おうか?
個人所有の帆を張れるようにした和船も見かけた。川が生活の一部になっているのを実感。
語り部さんが、篠笛の音色を披露。
ヒタヒタという波の音と相まって、いにしえの雰囲気に包まれた一時だった。
約1時間半の川下りを楽しみ、着いた権現河原は熊野速玉大社のすぐ脇だ。
そのまま速玉大社にお参りする。
目にも鮮やかな朱色、荘厳というより艶やかすぎて場違いな感じさえ受ける。
熊野速玉大社
速玉大社の絵図では鳥居だけは朱色で、お社は落ち着いた色合いになっているのだが・・・。
速玉大社の絵図 (むねこのICTスペースより)
速玉大社は本宮大社とは違い、神門内も撮影が許可されていて比較的自由に見て回ることも出来る。
神社には格式というか神秘性が重要な要素なのだろうから、隠したり制限したりする必要があるのはよく分かる。
でもあまり格式張らず、もったいぶらないほうが好感を得られるのではないのかとも思うのだが。
外国人も神妙な面持ちで頭を下げていた。
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熊野速玉大社を参詣して、私達の9日間に渡る熊野古道歩き旅は終わりを告げた。
よく歩いたな〜! と言う実感はあるが、四国88ケ所遍路道を歩き終わった時のような感激、熱いものが込み上げ高野山奥の院では不覚にも涙がこみ上げてきたような感無量な達成感、そのようなものは感じなかった。
片や歩行距離が1400Kmなのに今回は170Kmと歩いた距離の違いもあるだろう。
かけた日数の違いもあると思う。
どちらも歩きながら周囲の自然や景観・文化などに感銘し癒されながら次の目標を目指す。
だが、四国歩き遍路は札所という一つの小さな目標への道のりを自分の弱さを見つめ苦しみ悩み、それをお遍路仲間で慰め合い、街道の人達に励まされ次の札所へ次の札所へと線を結んで歩く。
一つの札所を通るたびにそれなりの充実感・達成感を味わい、次への意欲が掻き立てられる。
一つの目標をクリアーすれば自信もつく。だからより苦労しても次を目指せる。
札所にお参りすることより、札所という点と点を結ぶ線を歩くことのほうが意味があるとさえ言える。
四国遍路は実によく出来たシステム、人生双六なのだと思う。
そしてお遍路に対してばかりではなく、寺にとっても周りの商店や旅館にしても、街道に住む人々にとってもそれなりの利益が入り込むようになっている。それに対して熊野古道にそのような仕組みはない。
自らの願いや蘇りを願って熊野三山の神々に祈り願うために、ひたすら長い道を詣でるのだ。
熊野の神に願い、祈ることに意味がある。
そんな気がするのである。だから私のような信仰心の薄い者にとって、熊野古道歩き旅はひたすら小さな無名の山を歩き回る感覚の旅だったように感じる。
勿論、参詣道や神社仏閣の厳かな風情や自然の持つ素晴らしさ厳しさを随所で触れることは出来た。
雪の伯母子岳は思わぬ清冽な光景を見せてくれたし、雨の果無集落は今の世にこんな世界があるのかと思うほど素晴らしい天空の郷だった、大雲取越では蘇りを願って歩いた人たちの息遣いを感じることが出来たし、中辺路では王侯貴族達の参詣旅の雰囲気をたっぷり感じることも出来たのだ。
期待していた熊野の自然は、確かに豊かではあるけれどその豊かさは人が自身の糧のために作り上げた植林地の豊かさで、これが本当の自然なのか? という感覚がつきまとった。
人の手が入っていない自然なんて今の世にはないのかもしれない。
係る程度の差がそんな感覚を引き起こしたのだろう。
従って巻頭で紹介した、とある女性からの「貴方にとって熊野とは何なのですか?」という質問に対して私は、
「熊野は本当の信仰の地であると思います。
熊野の神々に対して自分をさらけ出しひたすら願い・祈る。
そういう場ではないのでしょうか。私は熊野の豊かな自然を感じたくて熊野古道を歩きましたが、熊野古道は神々に祈りを捧げるために歩く道。
豊かな自然を感じながらトレッキングを楽しむ道とは一線を画するものだと思います」 と答えたい。
ー 完 ー